歴史

一.寺の創立

傑岑寺は今から約450年の昔、天文23年(1554年)時の領主、皆川山城守俊宗公が、居城の壕外に西接する谷津山の地に創立し西山田、大中寺六世快叟良慶禅師の高弟天嶺呑補和尚を招請して、翌年の弘治2年(1555)に開堂したものである。創立の目的は、当時はいわゆる戦国時代で各地の武士豪族の間に禅が盛んに行われたので俊宗公もまた禅を修める為であった。又一つにはもと一族であった小山城主小山下野守高朝の孫政種の菩提を弔う為であったともいう。なお俊宗公は法名を天縦院殿傑岑文勝大居士と称し、又俊宗公の父である成勝公は法名を復生院殿建幢成勝大居士と称せられる。この両公の恩を永く記念する為に、山号を建幢山、寺を傑岑寺と名付けたという。創立以来一貫して曹洞宗に所属し、大中寺の末寺である。 曹洞宗は禅宗ともいう。現在の日本では曹洞、臨済、黄檗の三宗の禅が行われているのでこれを禅の三宗といわれる。

二.寺の移転

立後約30年を経て天正14年(1586)寺を現在の地森山に移転し規模を拡張して伽藍を完成させた。時の住職は四世建室宗寅和尚である。宗寅和尚は駿河の今川義元の弟であり永禄3年(1560)今川家滅亡により出家し大中寺で修行の上傑岑寺に住職中、徳川家康公に見出された。家康公は皆川城主山城守廣照公と相談して自ら外護者となり寺の移転再興を成就して祈願寺とした。故に徳川氏の紋(葵紋)を以て寺の定紋としている。 寺の移転する以前から森山にはすでに観音堂があって聖観世音菩薩が祀られていたのでそれを寺の本尊佛として奉祀し末っている。

三.千人塚草倉山戦死者の弔霊

天正年間(1573〜1592)に小田原城主北条氏が北関東を勢力下に収める野望を持ち何度か襲来したが、皆川城主廣照公はこれを太平山及び草倉山でよく防ぎ戦ったので北条氏はその目的を果し得ず兵を引き上げ去った。戦後廣照公は双方の戦死者千余人の霊を弔うために草倉山の上に塚を築き(俗に千人塚呼ばれる)草倉山と寺跡地の谷津山とを施食料として当寺に寄進して弔霊をゆだね託された。寺では以来毎年7月17日(当日雨天の場合は18日、又は19日)草倉山の上にて戦死者弔霊の施食会を行ってきた。現在は毎年9月16日、傑岑寺中で行っている。 皆川家家臣討死帳によれば家臣死者総数約560人のうち草倉山討死者としては侍大将をはじめとして医師、足軽等270人の名を記録してある。昭和7年、千人塚のそばに草倉山戦死者弔霊の碑を建て供養を修行した。碑の銘は廣照公十六世の孫庸一氏の揮毫である。

寺の推移

当寺が谷津山に創立された頃の状況は格別の記録がないのでわからない。おそらくは開基家の皆川城主が寺の一切を経営されたと思われる。 天正14年(1586)、現在地に移転する際からその後にわたり、建室、門庵の両師と親交があった徳川家康、秀忠の両公から徳川家の祈願寺として手厚い外護を受けた。寺は移転を機に規模は拡大され、また建室和尚は家康公の推挙により、京都に参内して禅師号と紫衣を賜るという栄誉を得た。この栄誉に対して贈られた家康公からお祝いの書状が現在も寺に残っている。

門庵和尚はその後徳川家に特請されて江戸に出て渋谷長谷寺(現永平寺東京別院)及芝泉岳寺の開祖となった。 天正19年(1591)11月徳川家より朱印五十石を領受して参府登城を許され、江戸城中では五万石に相当する待遇を受けた。寛永年間(1848年〜1854年)には草倉山と谷津山の寺跡地を御朱印地に追加してもうらうため、寺社奉行所に訴願したところその寄進者皆川氏の当主皆川志摩守隆庸公の添状を以って朱印地同様に認める回答状を得ている。

名峰和尚代の『田畑年貢納牒』(宝永三年二月改メ)によれば「所謂五十石の朱印地の田畑小作料は金拾壱両壱分、銭拾貫弐百四十文、籾六十八俵弐斗壱仲五合(壱俵五斗入)その外境内地の田五反歩手作」と記されいる。又太極和尚の記録にも、境内地の田五反歩と若干の野菜畑を数人の寺男に寺用の暇を見て耕作させているがこれは寺の経済を助ける為ではなく、寺男達の閑居不善を防ぐためであると記されている。その他境内内の中に約七町歩、草倉山拾町歩、谷津山に壱町歩、計拾八町の山林を有し経済裕福であると記されている。 名峰和尚の代、宝永4年(1707)正月14日火災により伽藍と門前の一部まで焼失し、多くの記録も失われた。単提和尚の代までに伽藍を復興した。 文化文政の頃(1804〜1830)、鳳山和尚の代、本堂、庫裡、衆寮、方丈、客堂、山門、鎮守堂、倉庫等の改新築し最後に中門を再建し大転和尚の代には梵鐘を改鋳し鐘楼を完成して地方禅院としての施設を整えた。 明治維新の改変に際し、境内寺領はことごとく没収されて境内の中、伽藍敷地を始めその周囲は国有地第四種にされた。墓地は村有となり、境内の山林の大部分と草倉山谷津山の山林及び元朱印地に属していた田畑は民有地となり門前の宅地は当時の居住者に開放されてしまった。 明治11年(1878)頃寺では没収による奉還金をもって元境内地にあった田五反歩と畑参町歩、山林約六反歩を買い取り、その小作料として米拾五俵、大麦四拾五俵、大豆弐石弐斗五升を産収、尚境内の一部分と山林を開墾して米四俵半、小麦四俵の小作料を増産して寺の経済を賄うことになったがその運営は相当困難であったらしい。尚時勢も佛教寺院は不利な状況に追込まれ、従来の権威を失い、経済の苦難により衆寮、方丈、倉庫等相次いで取壊しとなってしまった。 明治44年(1911)2月火災のため本堂、庫裡、鐘楼を焼失し大正元年(1912)辛うじて庫裡一棟を立て仏祖の像を仮安するに至り以前の面影は殆んど失った。更に昭和19年(1944)太平洋戦争の中期政府の特設機関である大政翼賛会の要請により梵鐘殿鐘初め金属性の佛具、汁器、火鉢、土蔵の窓枠に至るまで提出させられ、敗戦後の昭和22年(1947)には寺の財源の最たる田畑参町九反歩は農地解放令によって所有権を失い、寺の運営最も困難を極めた。

国有地第四種(社寺境内地)は昭和憲法によれば神社寺院等公有設備を置くこととなり没収された当該社寺に無償譲渡されることになったので、当寺においても苦心して境内地がもと寺領であることを証する(明治5年以前の書類)ものを付し合法的手続をとり昭和24年(1949)8月15日大蔵省財務局より境内地8,800坪、土地、立木とも無償譲渡を受けることとなったので寺の運営に一筋の希望を見いだすことが出来た。

昭和25年(1950)住職は檀徒総代と協議して本堂再建を計画し、境内立木を伐採して一部を用材にあて、また一部を売却して基金を作り檀徒の協力を得て工事にかかった。昭和27年(1952)秋、竣成した。ちょうど宗祖承陽大師の七百回忌にあたり絶好の報恩事業となった次第である。

昭和28年(1953)2月20日、火災により庫裡焼失したがその年秋庫裡を立て直した。土蔵は傷みが激しくまた用材伐採の際の倒木により破壊していたので撤去された。

昭和32年(1957)4月の大風により鳳山和尚の代に建造された山門が倒壊したが昭和34年(1959)4月檀徒、日向野与一氏が欅造り四脚門を独力寄進された。また昭和26年(1951)春境内の立木伐採跡へ杉、檜苗4,500本を植付け、以後杉、桧、松、等を植歳すること計1万本を超え今や境内及寺有山林大部分の造林を完了し寺の将来に備え且又境内の風致を整える目的を達した。 昭和42年(1967)3月宗教法人法による「宗教法人傑岑寺」の登記を完了した。 昭和38年(1963)国で計画した東京青森間を結ぶ東北自動車高速道路の建設事業が始まり昭和42年(1967)秋になって寺所有の山林の一部が道路用地となることが判明し道了鎮守堂と附属石祠を移転することになった。道了堂は天正15年(1587)に寺の鎮守として道了尊を境内のほこらに祠ってきた。明治の始めに道了堂として移動したものである。昭和47年(1972)3月20日移転した道了堂が完成し落慶式となった。

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